室蘭清水丘高等学校東京同窓会だよ

たより

英語科(昭和45年~平成20年)の色々な話題・想い出

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同時代を共にして―英語科開設の頃― 一組担任下宮英治

懐かしき清水丘での日々 講師 R・ギング

英語教科を受け持って(元教員の感想)

LL教室について

英語科で訓練を受けて

2012年ギング先生からの手紙

A letter from Mr. Ging.

英語科担任の近況写真

同時代を共にして―英語科開設の頃― 一組担任下宮英治

内浦湾を吹き渡るあの潮風は今日もまた清新の気をいっぱいに増市の丘に運んでいるだろうか。 昭和42年待望の新校舎が完成して、それぞれ自分の机やら持ち物を抱えた生徒達といっしょに測量山を山越えしたあの日のこと、何か新しいことが出来る、そんな予感がする中でやがて始まった英語科課程開設当初のことなど、在職7年間のさまざまな場面が今一気に脳裏にflashbackされて甦ります。 校舎新築時の青写真の中にLL教室を想定した設備が組み込まれていて、これは当時の英語科の先輩教員、成田郁郎、富樫小三郎、増川暁児先生らの先見的発想によるものでした。同時期、道教委は普通科中心の道立高校に地域の特性に応じて 新たに理数科および英語科課程を導入する方針を固めており、これらの条件があいまって、室蘭市には、栄高には理数科、清水高には英語科が設置される運びになりました。 44年春、英語科主任に小樽潮陵から谷川原義之先生を迎え、その卓抜した指導力の下で新課程が発足しました。たまたま私は初年度のクラス担任を仰せつかりましたが、翌年は谷村善通先生、次いで3年目は山中富雄先生……と、きわめて秀れた先生方との連携があり、更には英語科全体、学校全体の厚い支持がある中で、英語科課程の将来に向けての基礎固めが出来上がって行ったように思います。 何か新しいことが出来るという想いは、音声重視の英語教育の実践とのう視点に焦点化されて、カリキュラム上ではLL演習一会話一文法の間で教材、指導法のintegration(統合化)が図られました。講師として委嘱されたRegisB.Ging先生は、この時期ほとんど全ての時間を、個人的自由時間さえもこれらの授業に投入して指導に当たってくださいました。以来17年間、ギング先生が中身を満たしてくださった。深甚の感謝の気持ちと共に思い出しています。 想い返せば、60年代は大学から高校へと学園紛争が山おろしの風のように吹き荒れた時代でした。心ならずも対決して、互いに傷ついた、そんな場面も経験しました。それから35年を経て、最近室蘭在住の者達が「クラス会をやろうよ」と言い出しました。昨年に統いて、今年はギング先生もお呼びしようというのです。なんと嬉しいことではありませんか。 清水丘校が今再び装いを新たにしようとしています。そこから新たに何が生まれるか、かつて在職した多くの教職員の一人として見守っています。

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懐かしき清水丘での日々 講師 R・ギング

あの懐かしい清水が丘の坂道を登り、はじめて校門をくぐったのは、昭和44年4月初旬、私が28歳の時である。そこで、私が人生の新しい一時代が始まった。一生忘れられない、すばらしい出会い、友情、またたのしい日々の出発点だった。私の生涯の黄金の時代である。 新入生のように胸をわくわくする門出であった。室蘭教会に赴任したばかりで、まだまだ日本社会や、学校生活のことが分からず、心細かった一方、教えることや、若い生徒たちとの付き合いの大好きな私は期待で胸ふくら思いであった。幸いに、私の期待は十二分に報いられた。 二十代の青年だった私は、学生たちと気軽に付き合え、彼らと同じ立場で日本の学生生活とはどんなものか、又、その悩みや楽しみなどを彼らを通じて体験できた。その体験のためだろうか、今でも、学生の立場に立って、私は現在の日本の教育界の危機を見ようとしている。: 私が教段に立ち始めたころの学生は生き生きとしていた。学生運動はピークを越えていたが、まだその活性が残っていた。学生は、より良い社会や教育を求め、活発に人生や社会について討論していた。又、フォーク時代で、彼らが集まれば、ギターを弾き、歌に興じ、クラスはよくまとまったものだった。 授業も楽しかった.学生は英語をマスターしたいとの意慾に燃え、私も、先生方の協力を得て、色々な教材や教え方を自由に取り入れることができたから、楽しい上に充実したものだった。 私の大きな楽しみは、クラスをうちの教会へ呼んでパーティーに招待することだった。毎年クリスマス・パーティー、又、英語科の卒業式を兼ねて卒業パティーを開いた。三年間付き合った教え子と別れる卒業の日は、いつも胸が詰まった。 もう一つのハイライトは、先生方との付き合いである。全力をあげて生徒に尽くし、より質の高い授業を求め、一人一人の生徒の二一ズに応えようと努力する彼らの内に、私は教育の真髄を見た。すばらしい教育者の模範であった。私を仲間の一人として温かく迎え入れてくれた先生方。今でも数人の方と親しく付き合っている。 昭和60年6月、私の転任のために清水が丘と別れる日が来た。その後も、時々、室蘭へ行く用事のある時には、必ず測量山に登り、展望台から清水が丘の校舎やグラウンドを見下ろすのが私の習慣となった。その都度、まるで過去ヘタイム・スリップしたように、生徒たちの声が聞こえ、懐かしい数々の顔や場面が目に浮かんだものである。それは感動的な体験である。清水が丘での日々は、深く私の心に刻み込まれている。

ギング先生は昭和44年英語科設置以来昭和60年までの16年間外人講師として英語科生徒(通算600名以上)を指導された。なお、英語科は平成20年3月開設以来38年の歴史を閉じた。

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英語教科を受け持って(元教員の感想)

平成になって英語科も20年の歴史となり、それまで一組だったのが2クラスになって、今後どのように英語科を作り上げていくかがいつも議論の中心であったように思います。英語科教員同士をはじめ、他教科の先生方と何度も議論を重ねたことは良き思い出となっています。昭和62年11月忘れもしない臨時職員会議がもうけられ、放課後2時間ほどかけて普通科の間口を減らす案(8から6へ)、英語科を増やす案(1から2へ)が学校長より提案がありました。当時は全国的に国際化が教育界のキーワードでした。そのためにも英語科を備えた学校をもっと増やしたいという教育委員会の意向はあったはずです。 当時は道内にも3校(旭川北、砂川北)に英語科がありましたが、なぜこの3校に設置されたか最近理由が判明しました。昭和60年頃に40台のタイプライターがすべて電動式になり、その年に道内で初めて英語科1日体験入学が行われました。この取組および英語科の様子が昭和59の月刊英語教育{大修館}で全国に紹介されました。更に、昭和57には英語弁論大会で1年生が全道大会優勝。全道英語研究大会も当番校となり昭和61年に室蘭で開かれました。  とにかく教員間では多くの議論を重ね、ああだこうだ言いながら、年度末(2月下旬)には学年で、教科で温泉街へ1泊2日の旅行に出かけ夜遅くまで話し合ったことは今でも懐かしい思い出です。そしてそれが次年度の活力になったことは間違えありません。 そして英語科は実用面をもっと重視した授業展開がなされてきたのではないかと思います。授業内で英語劇の実践、グループによる英語発表会の実施、海外研修、ENGLISH DAYの実施など行われました。清水ヶ丘高校の校歌の英訳も英語部が行い(今もその記録が残っていると思いますが)曲に合わせた英詩が見事でした。   **広報部注釈:校歌の英訳文はただいま探しています。暫くお待ちください。** ご存知と思いますが昭和59年より英語科閉科までの清水丘学校長はすべて元英語教員でした。英語科に特色を出すためにそのような体制を教育委員会がとったことと思いますし、旭川北高校も本校に倣い昭和63ごろから英語の学校長になりました。 外国人の先生には当初の15年間はギングさん(室蘭教会牧師)、その後グドールさん、マイク・セッションズさん、ケイト佐藤さん(日本人とご結婚)、キャロラインさん(昭和59年文部省から高倍率を勝ち取られて派遣)、ほかにも、キャミラさん、レイチェルさん、ゾーイさんなどとても優秀な方々が担当されました。 ところで、室蘭はペリー来航より古い外国との接触があったことをご存知ですか?イギリス船プロビデンス号が18世紀末に室蘭へ立ち寄り、「プロビデンス号の謎」という朗読劇がNHK室蘭放送局から発信されました(昭和62年ケーシー高峰さん主演、本校イギリス外国人も出演)。その当時の様子を高校生レベルの英語で理解できるよう英語の先生方で平成10年ごろにに一冊の英訳本ができ、授業の中でも使用されたことを聞いております。プロビデンス号の船の模型は白鳥大橋下の広場に見ることができます。 以下に資料などを見ることができます。 探険船「プロビデンス号」のこと 室蘭の夜明け

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LL教室について

昭和45年(1970年)増市校舎に入学して、火曜日と木曜日は七時間、土曜日は六時間授業で、且つ三年間で普通科では必須履修科目の内、数Ⅲ、地学、物理、地学、古文か漢文、日本史か世界史のいずれかを選択して英語の時間に割り振り、大変厳しいカリキュラムが組まれていました。中でもタイプライター(確か三階の一番奥の右側教室)と、一階の柔道室の手前のLL教室は、我々36名だけの専用施設でしたから、他のクラスと違った特別扱いされていると感じていました。 さて、LLとはLanguageLaboratoryと称して、一人ひとりの生徒が自ら「繰り返し」練習できる専用機材が用意されて、発音もさることながら、覚えておくべきフレーズなどを声に出して、それをテープに録音して確認し、時にLLのアシスタント(女性)からアドバイスを受ける時間でした。 右の絵のような(実際は鮮やかではなく、ベージュかライトグレー)、個人をそれぞれ隔てるブース形状の什器が並んでいます。前と横の衝立は高く隣りが見えません。しかし前方はガラス張り、時間内は振り向いたりする人は居なく、結構皆んな真面目に取り組んでいました。教室の前方には先生のモニター施設があって、教材の音声を各ブースに流します。先生は練習の様子を聴いては「時には注意」「アドバイス」をランダムに行っています。従って居眠りも、さぼり(お気に入りの曲を持ってきて聞くなど)できない状況でした。 私たち一期生から少なくとも四年後までは、所謂「オープンリール式」のテープデッキ(なぜかモノラル)を使用していました。生徒は一本30分か60分テープを買って教室の席に就きます。ブースには空リールがセットされているので、自分のテープを引っ張って、反対側の空リールに巻き付けて準備完了です。しかし女子の皆はこの操作も大変苦労したようです。後日妹に聞きますと、当時流行り始めていて流通していたカセット式に変わったそうで、わずか数年間の当初のLL機材、なにやらもったいない感想を持ちました。 この方法は、機材がコンピューターにとって代わるまでは継続していたようで、英語教育には欠かせない「繰り返し」練習の基本と言えます。そして今でもその内容はクリアに思い出せますし、自然に(条件反射のように)出できます。それこそ、今で云う(スピードラーニング)に加えて、自分で発声して弱点を補え覚える機能を追加したものでした。

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英語科で訓練を受けて

1970年から三年間はクラス全員が『我々はモルモット』と云う位、先生たちも戸惑いと不安の連続だったでしょう。全国でも珍しい専科のスタートでしたから。でも、平成20年までこの科は継続して、憶測ですが、合計で1,600名以上の英語科出身者が全国で活躍しているはずですから、誇りに想っても問題ないと感じています。 さて、1969年の一組時代の思い出と、その後に繋がる逸話を紹介します。 1969年(昭和44年)の正月の頃、春からの高校への進学にあたってはとても悩ましい問題でした。清水丘に英語科が新設されるとの先生からの案内があり、一方栄高には理数科が、自身としてはどちらの進路も魅力的で、父親が学校と仕事も技術系だったこともあって、やはり栄高にしようかと考えていたのは事実です。しかし「これからは英語だ」のアドバイス、これは度々の海外出張での苦労を息子にはさせたくないとの気持ちもあったのでしょう今となってはこの指針は正しかったと確信しています。 学校での教科は、英語科だけが火曜日、木曜日に七時間、そして土曜日も六時間まであって、週に四コマもタフな学校生活でした。加えて地学、数Ⅲ、漢文(確か)などのカリキュラムを全て英語に振り分けられていましたから、まさに英語漬けでした。他の九クラスの皆からは別の眼で見られたり、二言目には「お前ら英語科だから」ともいわれたりと、当時英語科一期の36人は少し肩身の狭い思いもあったことも事実です。 ただ、三年間で習得できたことは、英語に対しての拒否反応を無くせたこと、先生の工夫でフォークソングや優しい歌を歌うことで、発音や自然な英語的表現を体得できたことでしょう。従って、自身が進学後履修したドイツ語も、社会人になって必要となった中国語にも全く自然に入ることができたことは、この時代の素地に違いありません。更には普通科ではありえないタイピングとLanguageLaboratoryを占有できたことです。当時でもタイプ(機械式です)は、一分あたり30~40ワードは打てたと思いますから、後日パソコンのキーボードはお手の物になったのは云うまでもありません。 30才代では、パスポートを増刷する位に米国、欧州を行き来きし、様々な人たちとの仕事、プライベートの付き合いができたことも、全く物おじせずに入れることも、三年間の学習とその成果なのでしょう。分からないことは即座にその場で聞き返す、質問することは、恥ずかしいなどと思うことは避ける、更には自信がなければ相手の発言を静かに復唱する、これらは外国語を習う際の普遍的な姿勢だと確信しています。ただ英語教科の犠牲にしてしまった、世界史、とりわけギリシャ神話時代の知識が足りなくて、慌てた経験も多数ありました。ですから、言語だけにとどまらず広く知っておくべき、学習すべき事柄にも後になって気がつかされました。 一組の教室内での逸話が一つあります。 勿論英語の時間で担任の下宮さんが次のフレーズを黒板に突然書きとめました。 クラス36人全員、キョトン?!? 当時私たちはビートルズ、カーペンターズの歌詞に自分たちで勝手に訳詞をしていました。そして、教室では多くの慣用句や決まりごとなどを繰り返し復習、暗記していました。ですから、すっかり頭の中は英語。 15分たってから誰も手を上げられずにいて、先生が出した【回答】、それは吃驚するほど、頭から冷たい水をかけられた衝撃でした。 現在流行っている《スピード・ラーニング》と全く同様の方法を私たち36人は実践していました。これが、この驚くべき衝撃でした。とにかく、レース中の馬のようにならずに、頭を柔らかくとの先生の意図を理解して、その後は一層英語関連授業に熱が入ったのでした。 他にも思い出すことがありますから、続編は後にとします。 私たちにはもう一つの【証書】があります。そしてとても大事にしています。 また英語科出身の同窓の方が多くおられますから、皆さんにも投稿をお願いしておりますから、楽しみにしてください。 ギング先生からのメールを頂きました 2012年10月6日に開催の41回総会・懇親会に「ギング先生」をお招きしていましたが、先生の急なご出張でお目にかかることが叶わなくなりました。 2013年の総会はおかげ様でたくさんの英語科の方との再会がかないました。記念写真も撮りました 先生から次のメッセージが英語課卒業生の皆さん宛に届きましたので、ご紹介します。 また、英語課歴代の担任の先生と札幌で会合を持たれた際の写真も送っていただきました。とても懐かしい写真ですのでここで披露もさせていただきます。先生の皆さんお元気そうでなによりです。先生方への連絡は谷村先生が受け持っていただいているようです。

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Message from Mr. Ging

To all the alumni of Shimizugaoka Eigoka, Greetings! I hope all of you and your families are well. I'm sorry that I can't see you at the gathering this year. I have business in Hong Kong. I will be there until October 7th so it is impossible for me to attend. I enjoyed seeing you last year. Last fall I had business in Hokkaido. I called Mr. Tanimura and he set up a gathering with all the Eigoka teachers living in Sapporo. We do this every time I am in Sapporo. I always look forward to it. We had a very good time. I am sending some pictures of the gathering. I hope you enjoy them. With best wishes to all of you. Regis B. Ging September 30th, 2012

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Greeting from U.S. R.B.Ging.

Dear Masaru, I was just notified by Maryknoll that you had contacted them and wanted to get in contact with me. It's good to hear from you. I hope all is well with you. Right now I am at my sister's house in Michigan. I came to celebrate Thanksgiving with my family. I think it is the first time in 50 years to have Thanksgiving with my family because I was in Japan for 50 years and never visited the U.S. at this time of year. I will be returning to Maryknoll Headquarters in Ossining, NY in a few days. Last year I was transferred from Japan to Maryknoll's headquarters in Ossining, New York. It was not my choice. I wanted to stay in Japan, but they had a job for me. We have a place for our elderly priests and brothers who cannot take care of themselves and for our men who are sick and need nursing care. It's called Saint Teresa Home. We have 50 men there at present. My job is to be a chaplain to the men, to look after their human needs (not their medical needs - the doctors and nurses take care of that). I visit them one by one to see how they are coping with their situation. When I visit one of them, I may be with him for just five minutes (usually because their mental situation is such that they can't communicate or they just don't want to talk.) If they have a problem, I will do my best to have it taken care of. Other times I may be with the person for as long as 2 hours because he likes having someone who will listen to them. Often they want to talk about the work they did overseas as missioners. Other times I may tell them about my life in Japan. Often they ask me to help them with their emails. I expect to be visiting Japan next May. Tell Setaka and the others. At that time it would be great to get together. Take care, Masaru. See you next May.
Ging-sensei

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同窓のたより

掲載一覧

第58回の清水丘ゴルフコンペ

八期平間さん(マダガスカルで)医療活動

上松さんの思い出を語る会

囲碁で交流される先輩たち

六大学野球観戦記

グァテマラからの手紙 その2

グァテマラからの手紙 TIKAL遺跡

増市校舎1974年

清水町校舎の全景

第58回の清水丘ゴルフコンペ

18名参加のコンペは、2014年10月9日 木曜日 快晴(薄曇り)「よみうりゴルフ倶楽部」(稲城市)での開催され、ビデオをかついで取材してきました。 このコースは、InとOutを違う設計者によるレイアウトだそうで、大変珍しいコースです。直ぐ隣はプロの大会で有名な読売カントリーで、丘陵地に立地したコースでした。(ご参考:18ホール 6,458ヤード コースレート 68.6) 来年春のコンペは記念の60回になるそうで、色々な企画も計画されているそうです。思い思いのコスチュームに身を包み、天候も幸いして鮮やかな緑の中に身を置かれる姿はとても街中でお目にかかる先輩とは違った様子で、リラックスしてエンジョイされている様子でした。ですから、野暮な結果等の情報は控えることにしました。 なぜか、五組目には美人のキャディーさんが二人付き添いになって、先輩各氏ウキウキ気分でスタートされました。

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八期 平間さん(マダガスカルで)医療活動

各先輩の色々なご活躍を見聞きすると、いつも頭が下がる思いです、同時に後輩として誇らしく感じて、我々も爪の垢を煎じての思いにも至ります。 ここで紹介する平間さんのご活躍の様子は室蘭民報(9月14日)の記事として紹介されました。また同期会に参加された先輩から資料を預かりましたので、記事の内容に加筆して紹介します。 アフリカの島国、マダガスカルの首都アンタナナリボ(標高は1,200mを超える、人口は、約210万人、11月~4月が暑い雨季で、5月~10月は涼しい乾季。成田からバンコク経由で約15時間のフライト))で、厳しい環境の中、看護師として20年以上にわたり医療奉仕をしている平間理子さん(八期)=マリアの宣教者フランシスコ修道会シスター=が3日、室蘭清水丘高校昭和33年卒業生でつくる「八起会」の同窓会に初めて出席し、57年ぶりに仲間たちと顔を合わせ、思い出話を弾ませた。 同地はクーデターが頻発し、政治、経済、治安情勢は深刻。首都・アンタナナリボでさえ下水設備などのインフラは整備されていない。病院の医療体制は劣悪な状態で診断機器や薬が足りず、不衛生。「まずは掃除から始めた」と振り返る。 寄生虫や結核、ペスト、マラリア、糖尿病などが多く、5歳未満で亡くなる子どもは約50%、妊産婦死亡も多いという。自身もマラリアに感染した。医療費は全額自己負担か企業(雇用主)の負担。救急車も有料。患者は薬などを薬局で買って病院に持参する。「お金がないと命を落とします」 日本では想像できない過酷な状況の中、平間さんはたった一人の日本人職員として、医療奉仕への決意と使命感を持って従事する。病院に近い修道院で暮らし、病院からの最低限の手当と日本からの年金で生活。103歳のフランス人と地元の83歳と81歳のシスターたちと一緒に暮らし、彼女たちのお世話もしている。楽しみは日本から送られてくる新聞や雑誌を読むこと。届いたワカメやシチューのルーで料理を作ると喜ばれる。 現地では「人々は大らかで温和。気候が良く、自然が美しい。花は年中咲き、果物もおいしい」とすっかりなじんでいる。今後の取り組みとして「人材育成が必要。奨学金を出して専門資格を取らせ、手に職をつけることで、その日暮らしもなくなる。医療検査機材をそろえ、診断を確実にして治療を行えるようにしていきたい」と展望する。 3年ごとに日本に帰国。今回は登別グランドホテルで開かれた清水丘高校の同窓会とタイミングが合い、念願かなって参加できた。「林間マラソンや文化祭のあんどん行列、スポーツ大会、修学旅行など楽しい思い出がいっぱい。みんな明るく元気そうで、当時の面影が残っている」とうれしそうだった。級友の古川(旧姓・北)紀代子さん=登別市=は「勉強ができて子どものころから優しかった。変わっていないですね」と卒業以来の再会に感激していた。平間さんは同窓生からの寄付を託され、11月1日にマダガスカルへ戻る。

平間さん出演のプライムニュース(抜粋)はこちらをご覧ください。(再配布はご遠慮ください)1時間少しの長尺です。(現在ビデオは見ることはできません)

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上松さんの思い出を語る会 の様子

2013年12月14日土曜日 品川プリンス 品川飯店の一部屋を借りて、上松さま奥様、ご子息(サトシさん)も参加いただきまして、1期から31期までの幅広い同窓の皆さんが参集して、約2時間半上松さんの思い出話を交換しました。ご葬儀等は「近親者で」とのことで参列が叶わなかったことで、どんなお写真で上松さんがと、意向同音に待っていた同窓全員が、遺影を拝し、涙とともに頭を下げ、そして「上松さんらしい」「いいね」と発せられていました。 ご子息にお許しを頂いて、撮影させていただきましたので、掲載します。 参加された皆さんの8割に当たる方々が、時々「声を詰まらせて」しかしご家族にそれぞれが知っている、思い出に残っているエピソードをご披露し、終始笑い声の響く集まりだったようです。 中でも、中川先輩は、税務関係のお仕事の先輩として、でも上松さんの人柄からくる逸話を、ご苦労されながら発表されるお姿は、数分の絶句とともに涙が止まらずでした。 カラオケでいつもデュエットしたこと、浮気談義をしたこと、いつも美味しい料理をごちそうになったことも、時折爆笑も、失笑もあり、ご家族はさぞ吃驚されたことでしょう。 久しぶりの参加の大西さんは、何かの会で急に胃が痛くなり、上松さん処方の「ガスター」で事なきを得たお話には、実は前段の話があったことが、会のお開き前にご子息披露され、上松さんらしい行動・思考を彷彿とさせることとなり、皆が納得していました。 本当に悲しい出来事で、しかも列席できなかった無念さを抱いていたのですが、実は貫け掛けで一19期女子が参加していたようです。でも彼女の気持ちは痛いように理解できます。そして果たして19期の皆さんは納骨には立ち会われたようです。 ご家族は普段の「お父さん」とは異なる一面を聞かされ、でも痛く納得していらした様子です。サトシさんも立派に成人され、まだ独身との発表で、一期の先輩は早速お世話をなど発言もあり、会は終始、涙と笑いと入り混じった、でもお開き後は何か心地よい気分になりました。 やっぱり此処も『上松さん』が上の方からニカニカしながら、そして『ヨッ!!』と手を挙げて見ておられたのだと実感しました。 それにしても、多趣味だった上松さん、大量の韓流DVD、中島みゆき、ビートルズ、そして60-80年オールディーズのCDを色んな同窓の後輩にコピーしてくださった事実にも、改めて驚かされました。これからも幹事会も総会も、時には他の会合も上から参加してくださいね。 当日配布した思い出の資料は以下です。 ??10周年誌から ??20周年誌から ??しみず4号から ??スナップ写真 ??しのぶ会でのBGM

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囲碁で交流される先輩たち

9月21日土曜日 「しみず」19号の編集の打合せで祖師谷に伺い、一回の和室で囲碁部の皆さんがお昼過ぎから夕方まで碁盤を挟んで熱心に楽しんでいらっしゃいました。 毎月決まった日に参集されて、ほぼ五~六人の方が対局相手を変えて楽しんでいらっしゃいます。足の具合が悪いのに、ゆっくりと歩いていらっしゃる先輩の姿をみると、何かこみあげてくる物も感じます。パソコンを使うため、そっと入室して、邪魔にならないように心がけますが、張り詰めた緊張感に圧倒されるばかりです。 対戦が終わると、すぐに盤面をクリアにせず、熱心に局面のことを聞いたり、開設される姿はとても頼もしい限りです。その日は1期の相撲部出身の先輩も参加されていて、8歳から10歳くらいの違いはもろともせずに愉しまれる姿勢は、単に勝負というより、お互いの気遣いも感じられます。 そして夕方は場所を蕎麦屋に変えて、それこそ囲碁の話題に限らない交流をされていました。囲碁部の皆さんにとっては、毎月の決まった土曜日が「プチ 同窓会」なんですね。

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大先輩からご厚意で六大学野球を観戦しました

2013年 9月14日 青山 神宮球場 10:30 時折心地よい風が通って日差しは夏バテした様にすこし柔らかく感じる神宮で東大と明大の試合観戦をしてきました I永先輩から送っていただいた良い席で 両校の懸命の応援とグランドをピリッと駆け回る両校の好試合でした そしてアットバット時は xxx君 yyyy高出身と毎回アナウンスされます これは気にならずに試合は進んでいきます 何回目かの攻守交替時にふとバックスクリーンに目をやると 電光掲示板には登録選手全員の名前 出身校が掲載されることに気が付い時は それまでピッチング キャッチボール 打撃 そして溌剌としたプレー振りを 素人的感想を頭に浮かべながらの観戦でしたが 夢を見るように光景が浮かんできました そうです 少し観客席より標高が低い土の上 ホームベースの後ろにI永先輩が座っていて ミットのいい音 ナインへの指示の声が大きく響く光景が重なる まるで時代を遡って現実の様に目に飛び込んできたのです きっと1940年代では電光板はないはずです でもきっとアナウンス位があっただろうと確信しました(実際にI永先輩に確認したら 確かにアナウンスはあったと仰っておられました) そして 真っ白ではなく少しすすけたバットを手に先輩がボックスへ向かうときは 「8番キャッチャーIJ君 室蘭清水丘(他県に同名校のがあるので 必ず室蘭はついていたはず)」 と神宮の空に木霊したのだろう と もしタイムスリップが叶うなら この現場に行っていて 感激で先輩の姿がかすんじゃってるとも強く想いました こんな光栄なことは 一後輩にとっても とても誇らしく感じて しばらく現実に戻るのに時間がかかりました それからは髭ずらの親父が 一人 気味悪く にやにやしながらの2時間30分の試合観戦でした じつは 上記のリポートと空想は 九月の上旬大先輩から予想外にメールを頂戴したことに始まっています 「お元気でお過ごしのことと思います。  ところで、o島さんは、少年野球の世話役をされているとお聞きしていますが、東京六大学野球の観戦に興味がありますか。  実は、私の手元に、今週土曜日に開幕する東京六大学野球秋季リーグ戦全試合を 観戦できる「特別招待証」(座席指定)がりますので、o島さんが希望されるの であれば 別途郵送します。」 会長をなさっていたころから 幹事会や総会でお話を少しするチャンスはありましたが 私の少年野球のこと 息子(実は34回総会で集合写真のピックアップを手伝わせただけ)を覚えていてくださって メールを出そうと思われたと 後からお聞きしてたいそう感激でした 大勢の同窓の後輩の中から 非常に少ない情報からピックアップいただけ そして 声をかけていただける程 光栄にも 「さすが 先輩」と思わせる とても良い気分の一週間でした 秋季大会 できるだけ時間を作って他校との試合を楽しみにします

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グァテマラ から の 手紙 その2(2012年11月23日)

本日も地球の反対側で活躍されている同窓生から便りがありました。実際はFacebookで投稿いただいたのですが、興味深い内容なので転載します。 Guatemala, TIKAL遺跡(世界遺産)を見に行きました。Maya最大規模の遺跡群です。写っているのは1号神殿で、TVや写真などでご覧になった方もいるのでは?日中は大勢の外国人観光客で賑わいますが、早朝だったので貸し切りでした。 遺跡群を含む国立公園一帯はジャングルで、くもざる、ハナグマ、タランチュラ、トゥカーン(くちばしの大きな綺麗な鳥)など、さまざまな動植物にも出会えます。12月21日はマヤ暦の大きな節目にあたるので、日本の旅行者も多く訪れると思いますよ。首都から飛行機を利用すると1泊2日でツアーに参加できます。我が家は予算の制約上、自家用車で片道約9時間を移動しました(笑)。 写真の神殿から少し離れた4号神殿の上から眺めると、ジャングルの木々の中に神殿の上部がいくつも突き出ており、その眺めは壮観です。中米旅行をされる際にはお勧めです! TIKAL遺跡 ちなみに、空中に小さな点がたくさん写っていますが、無数のツバメが虫を捕えている様子です。 TIKAL遺跡 (2012年) TIKAL遺跡は1979年に「複合遺産」として登録されたそうです。 遺跡の位置関係 古典期マヤ文明の代表定期都市の遺跡で、いつくかのピラミッドが見られるそうです。2,500も前人の知恵と・栄華を観られるのは素晴らしいことです。 いくつかのハリウッド映画でロケ地としても、背景地としても使われていて、インディージョーンズシリーズの四作目でも見覚えがあります。機会があって、お金もあると行ってみたい土地の一つですね。

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増市校舎1974年の様子

「室蘭100年」という冊子が愚宅の引き出しから目を覚ましまして、その中にとても珍しい写真があったのに気がつきました。 増市校舎の全景は、よく撮られているのが測量山からのもので、こんな航空写真があったのには驚きました。 室蘭港の発展の様子を全景として表現されているのですが、妙に中央部分に大きな面積の茶色が目に留まりました。 こんなに広いグランドに恵まれていたんですね。体育の時間に一周は大変だと感じてましたが、空からもくっきりするくらいの空間だったのです。

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清水町校舎の全景

室蘭港 開港140年、市政90周年を記念して刊行されました《室蘭の記憶》の各写真は本当に懐かしさと望郷の想いを強くします。 この中に母校の清水町時代の全景を見つけましたのでご案内します。 追直浜側から測量山を望む中心にグランドと本校舎以外の学び舎を見られる写真は、なかなか無いと感じたので転載します。 実際は、実際の書籍でご覧ください。

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