内浦湾を吹き渡るあの潮風は今日もまた清新の気をいっぱいに増市の丘に運んでいるだろうか。 昭和42年待望の新校舎が完成して、それぞれ自分の机やら持ち物を抱えた生徒達といっしょに測量山を山越えしたあの日のこと、何か新しいことが出来る、そんな予感がする中でやがて始まった英語科課程開設当初のことなど、在職7年間のさまざまな場面が今一気に脳裏にflashbackされて甦ります。 校舎新築時の青写真の中にLL教室を想定した設備が組み込まれていて、これは当時の英語科の先輩教員、成田郁郎、富樫小三郎、増川暁児先生らの先見的発想によるものでした。同時期、道教委は普通科中心の道立高校に地域の特性に応じて 新たに理数科および英語科課程を導入する方針を固めており、これらの条件があいまって、室蘭市には、栄高には理数科、清水高には英語科が設置される運びになりました。 44年春、英語科主任に小樽潮陵から谷川原義之先生を迎え、その卓抜した指導力の下で新課程が発足しました。たまたま私は初年度のクラス担任を仰せつかりましたが、翌年は谷村善通先生、次いで3年目は山中富雄先生……と、きわめて秀れた先生方との連携があり、更には英語科全体、学校全体の厚い支持がある中で、英語科課程の将来に向けての基礎固めが出来上がって行ったように思います。 何か新しいことが出来るという想いは、音声重視の英語教育の実践とのう視点に焦点化されて、カリキュラム上ではLL演習一会話一文法の間で教材、指導法のintegration(統合化)が図られました。講師として委嘱されたRegisB.Ging先生は、この時期ほとんど全ての時間を、個人的自由時間さえもこれらの授業に投入して指導に当たってくださいました。以来17年間、ギング先生が中身を満たしてくださった。深甚の感謝の気持ちと共に思い出しています。 想い返せば、60年代は大学から高校へと学園紛争が山おろしの風のように吹き荒れた時代でした。心ならずも対決して、互いに傷ついた、そんな場面も経験しました。それから35年を経て、最近室蘭在住の者達が「クラス会をやろうよ」と言い出しました。昨年に統いて、今年はギング先生もお呼びしようというのです。なんと嬉しいことではありませんか。 清水丘校が今再び装いを新たにしようとしています。そこから新たに何が生まれるか、かつて在職した多くの教職員の一人として見守っています。
あの懐かしい清水が丘の坂道を登り、はじめて校門をくぐったのは、昭和44年4月初旬、私が28歳の時である。そこで、私が人生の新しい一時代が始まった。一生忘れられない、すばらしい出会い、友情、またたのしい日々の出発点だった。私の生涯の黄金の時代である。 新入生のように胸をわくわくする門出であった。室蘭教会に赴任したばかりで、まだまだ日本社会や、学校生活のことが分からず、心細かった一方、教えることや、若い生徒たちとの付き合いの大好きな私は期待で胸ふくら思いであった。幸いに、私の期待は十二分に報いられた。 二十代の青年だった私は、学生たちと気軽に付き合え、彼らと同じ立場で日本の学生生活とはどんなものか、又、その悩みや楽しみなどを彼らを通じて体験できた。その体験のためだろうか、今でも、学生の立場に立って、私は現在の日本の教育界の危機を見ようとしている。: 私が教段に立ち始めたころの学生は生き生きとしていた。学生運動はピークを越えていたが、まだその活性が残っていた。学生は、より良い社会や教育を求め、活発に人生や社会について討論していた。又、フォーク時代で、彼らが集まれば、ギターを弾き、歌に興じ、クラスはよくまとまったものだった。 授業も楽しかった.学生は英語をマスターしたいとの意慾に燃え、私も、先生方の協力を得て、色々な教材や教え方を自由に取り入れることができたから、楽しい上に充実したものだった。 私の大きな楽しみは、クラスをうちの教会へ呼んでパーティーに招待することだった。毎年クリスマス・パーティー、又、英語科の卒業式を兼ねて卒業パティーを開いた。三年間付き合った教え子と別れる卒業の日は、いつも胸が詰まった。 もう一つのハイライトは、先生方との付き合いである。全力をあげて生徒に尽くし、より質の高い授業を求め、一人一人の生徒の二一ズに応えようと努力する彼らの内に、私は教育の真髄を見た。すばらしい教育者の模範であった。私を仲間の一人として温かく迎え入れてくれた先生方。今でも数人の方と親しく付き合っている。 昭和60年6月、私の転任のために清水が丘と別れる日が来た。その後も、時々、室蘭へ行く用事のある時には、必ず測量山に登り、展望台から清水が丘の校舎やグラウンドを見下ろすのが私の習慣となった。その都度、まるで過去ヘタイム・スリップしたように、生徒たちの声が聞こえ、懐かしい数々の顔や場面が目に浮かんだものである。それは感動的な体験である。清水が丘での日々は、深く私の心に刻み込まれている。
ギング先生は昭和44年英語科設置以来昭和60年までの16年間外人講師として英語科生徒(通算600名以上)を指導された。なお、英語科は平成20年3月開設以来38年の歴史を閉じた。
昭和45年(1970年)増市校舎に入学して、火曜日と木曜日は七時間、土曜日は六時間授業で、且つ三年間で普通科では必須履修科目の内、数Ⅲ、地学、物理、地学、古文か漢文、日本史か世界史のいずれかを選択して英語の時間に割り振り、大変厳しいカリキュラムが組まれていました。中でもタイプライター(確か三階の一番奥の右側教室)と、一階の柔道室の手前のLL教室は、我々36名だけの専用施設でしたから、他のクラスと違った特別扱いされていると感じていました。
さて、LLとはLanguageLaboratoryと称して、一人ひとりの生徒が自ら「繰り返し」練習できる専用機材が用意されて、発音もさることながら、覚えておくべきフレーズなどを声に出して、それをテープに録音して確認し、時にLLのアシスタント(女性)からアドバイスを受ける時間でした。
右の絵のような(実際は鮮やかではなく、ベージュかライトグレー)、個人をそれぞれ隔てるブース形状の什器が並んでいます。前と横の衝立は高く隣りが見えません。しかし前方はガラス張り、時間内は振り向いたりする人は居なく、結構皆んな真面目に取り組んでいました。教室の前方には先生のモニター施設があって、教材の音声を各ブースに流します。先生は練習の様子を聴いては「時には注意」「アドバイス」をランダムに行っています。従って居眠りも、さぼり(お気に入りの曲を持ってきて聞くなど)できない状況でした。
私たち一期生から少なくとも四年後までは、所謂「オープンリール式」のテープデッキ(なぜかモノラル)を使用していました。生徒は一本30分か60分テープを買って教室の席に就きます。ブースには空リールがセットされているので、自分のテープを引っ張って、反対側の空リールに巻き付けて準備完了です。しかし女子の皆はこの操作も大変苦労したようです。後日妹に聞きますと、当時流行り始めていて流通していたカセット式に変わったそうで、わずか数年間の当初のLL機材、なにやらもったいない感想を持ちました。
この方法は、機材がコンピューターにとって代わるまでは継続していたようで、英語教育には欠かせない「繰り返し」練習の基本と言えます。そして今でもその内容はクリアに思い出せますし、自然に(条件反射のように)出できます。それこそ、今で云う(スピードラーニング)に加えて、自分で発声して弱点を補え覚える機能を追加したものでした。
18名参加のコンペは、2014年10月9日 木曜日 快晴(薄曇り)「よみうりゴルフ倶楽部」(稲城市)での開催され、ビデオをかついで取材してきました。
このコースは、InとOutを違う設計者によるレイアウトだそうで、大変珍しいコースです。直ぐ隣はプロの大会で有名な読売カントリーで、丘陵地に立地したコースでした。(ご参考:18ホール 6,458ヤード コースレート 68.6) 来年春のコンペは記念の60回になるそうで、色々な企画も計画されているそうです。思い思いのコスチュームに身を包み、天候も幸いして鮮やかな緑の中に身を置かれる姿はとても街中でお目にかかる先輩とは違った様子で、リラックスしてエンジョイされている様子でした。ですから、野暮な結果等の情報は控えることにしました。
なぜか、五組目には美人のキャディーさんが二人付き添いになって、先輩各氏ウキウキ気分でスタートされました。
各先輩の色々なご活躍を見聞きすると、いつも頭が下がる思いです、同時に後輩として誇らしく感じて、我々も爪の垢を煎じての思いにも至ります。 ここで紹介する平間さんのご活躍の様子は室蘭民報(9月14日)の記事として紹介されました。また同期会に参加された先輩から資料を預かりましたので、記事の内容に加筆して紹介します。
アフリカの島国、マダガスカルの首都アンタナナリボ(標高は1,200mを超える、人口は、約210万人、11月~4月が暑い雨季で、5月~10月は涼しい乾季。成田からバンコク経由で約15時間のフライト))で、厳しい環境の中、看護師として20年以上にわたり医療奉仕をしている平間理子さん(八期)=マリアの宣教者フランシスコ修道会シスター=が3日、室蘭清水丘高校昭和33年卒業生でつくる「八起会」の同窓会に初めて出席し、57年ぶりに仲間たちと顔を合わせ、思い出話を弾ませた。 同地はクーデターが頻発し、政治、経済、治安情勢は深刻。首都・アンタナナリボでさえ下水設備などのインフラは整備されていない。病院の医療体制は劣悪な状態で診断機器や薬が足りず、不衛生。「まずは掃除から始めた」と振り返る。
寄生虫や結核、ペスト、マラリア、糖尿病などが多く、5歳未満で亡くなる子どもは約50%、妊産婦死亡も多いという。自身もマラリアに感染した。医療費は全額自己負担か企業(雇用主)の負担。救急車も有料。患者は薬などを薬局で買って病院に持参する。「お金がないと命を落とします」
日本では想像できない過酷な状況の中、平間さんはたった一人の日本人職員として、医療奉仕への決意と使命感を持って従事する。病院に近い修道院で暮らし、病院からの最低限の手当と日本からの年金で生活。103歳のフランス人と地元の83歳と81歳のシスターたちと一緒に暮らし、彼女たちのお世話もしている。楽しみは日本から送られてくる新聞や雑誌を読むこと。届いたワカメやシチューのルーで料理を作ると喜ばれる。 現地では「人々は大らかで温和。気候が良く、自然が美しい。花は年中咲き、果物もおいしい」とすっかりなじんでいる。今後の取り組みとして「人材育成が必要。奨学金を出して専門資格を取らせ、手に職をつけることで、その日暮らしもなくなる。医療検査機材をそろえ、診断を確実にして治療を行えるようにしていきたい」と展望する。 3年ごとに日本に帰国。今回は登別グランドホテルで開かれた清水丘高校の同窓会とタイミングが合い、念願かなって参加できた。「林間マラソンや文化祭のあんどん行列、スポーツ大会、修学旅行など楽しい思い出がいっぱい。みんな明るく元気そうで、当時の面影が残っている」とうれしそうだった。級友の古川(旧姓・北)紀代子さん=登別市=は「勉強ができて子どものころから優しかった。変わっていないですね」と卒業以来の再会に感激していた。平間さんは同窓生からの寄付を託され、11月1日にマダガスカルへ戻る。
平間さん出演のプライムニュース(抜粋)はこちらをご覧ください。(再配布はご遠慮ください)1時間少しの長尺です。(現在ビデオは見ることはできません)
9月21日土曜日 「しみず」19号の編集の打合せで祖師谷に伺い、一回の和室で囲碁部の皆さんがお昼過ぎから夕方まで碁盤を挟んで熱心に楽しんでいらっしゃいました。 毎月決まった日に参集されて、ほぼ五~六人の方が対局相手を変えて楽しんでいらっしゃいます。足の具合が悪いのに、ゆっくりと歩いていらっしゃる先輩の姿をみると、何かこみあげてくる物も感じます。パソコンを使うため、そっと入室して、邪魔にならないように心がけますが、張り詰めた緊張感に圧倒されるばかりです。 対戦が終わると、すぐに盤面をクリアにせず、熱心に局面のことを聞いたり、開設される姿はとても頼もしい限りです。その日は1期の相撲部出身の先輩も参加されていて、8歳から10歳くらいの違いはもろともせずに愉しまれる姿勢は、単に勝負というより、お互いの気遣いも感じられます。 そして夕方は場所を蕎麦屋に変えて、それこそ囲碁の話題に限らない交流をされていました。囲碁部の皆さんにとっては、毎月の決まった土曜日が「プチ 同窓会」なんですね。
2013年 9月14日 青山 神宮球場 10:30
時折心地よい風が通って日差しは夏バテした様にすこし柔らかく感じる神宮で東大と明大の試合観戦をしてきました I永先輩から送っていただいた良い席で 両校の懸命の応援とグランドをピリッと駆け回る両校の好試合でした
そしてアットバット時は xxx君 yyyy高出身と毎回アナウンスされます これは気にならずに試合は進んでいきます
何回目かの攻守交替時にふとバックスクリーンに目をやると 電光掲示板には登録選手全員の名前 出身校が掲載されることに気が付い時は それまでピッチング キャッチボール 打撃 そして溌剌としたプレー振りを 素人的感想を頭に浮かべながらの観戦でしたが 夢を見るように光景が浮かんできました
そうです 少し観客席より標高が低い土の上 ホームベースの後ろにI永先輩が座っていて ミットのいい音 ナインへの指示の声が大きく響く光景が重なる まるで時代を遡って現実の様に目に飛び込んできたのです
きっと1940年代では電光板はないはずです でもきっとアナウンス位があっただろうと確信しました(実際にI永先輩に確認したら 確かにアナウンスはあったと仰っておられました) そして 真っ白ではなく少しすすけたバットを手に先輩がボックスへ向かうときは 「8番キャッチャーIJ君 室蘭清水丘(他県に同名校のがあるので 必ず室蘭はついていたはず)」 と神宮の空に木霊したのだろう と もしタイムスリップが叶うなら この現場に行っていて 感激で先輩の姿がかすんじゃってるとも強く想いました
こんな光栄なことは 一後輩にとっても とても誇らしく感じて しばらく現実に戻るのに時間がかかりました
それからは髭ずらの親父が 一人 気味悪く にやにやしながらの2時間30分の試合観戦でした
じつは 上記のリポートと空想は 九月の上旬大先輩から予想外にメールを頂戴したことに始まっています
「お元気でお過ごしのことと思います。 ところで、o島さんは、少年野球の世話役をされているとお聞きしていますが、東京六大学野球の観戦に興味がありますか。 実は、私の手元に、今週土曜日に開幕する東京六大学野球秋季リーグ戦全試合を 観戦できる「特別招待証」(座席指定)がりますので、o島さんが希望されるの であれば 別途郵送します。」
会長をなさっていたころから 幹事会や総会でお話を少しするチャンスはありましたが 私の少年野球のこと 息子(実は34回総会で集合写真のピックアップを手伝わせただけ)を覚えていてくださって メールを出そうと思われたと 後からお聞きしてたいそう感激でした
大勢の同窓の後輩の中から 非常に少ない情報からピックアップいただけ そして 声をかけていただける程 光栄にも 「さすが 先輩」と思わせる とても良い気分の一週間でした
秋季大会 できるだけ時間を作って他校との試合を楽しみにします
本日も地球の反対側で活躍されている同窓生から便りがありました。実際はFacebookで投稿いただいたのですが、興味深い内容なので転載します。
Guatemala, TIKAL遺跡(世界遺産)を見に行きました。Maya最大規模の遺跡群です。写っているのは1号神殿で、TVや写真などでご覧になった方もいるのでは?日中は大勢の外国人観光客で賑わいますが、早朝だったので貸し切りでした。
遺跡群を含む国立公園一帯はジャングルで、くもざる、ハナグマ、タランチュラ、トゥカーン(くちばしの大きな綺麗な鳥)など、さまざまな動植物にも出会えます。12月21日はマヤ暦の大きな節目にあたるので、日本の旅行者も多く訪れると思いますよ。首都から飛行機を利用すると1泊2日でツアーに参加できます。我が家は予算の制約上、自家用車で片道約9時間を移動しました(笑)。
写真の神殿から少し離れた4号神殿の上から眺めると、ジャングルの木々の中に神殿の上部がいくつも突き出ており、その眺めは壮観です。中米旅行をされる際にはお勧めです!
TIKAL遺跡
ちなみに、空中に小さな点がたくさん写っていますが、無数のツバメが虫を捕えている様子です。
TIKAL遺跡 (2012年)
TIKAL遺跡は1979年に「複合遺産」として登録されたそうです。
遺跡の位置関係
古典期マヤ文明の代表定期都市の遺跡で、いつくかのピラミッドが見られるそうです。2,500も前人の知恵と・栄華を観られるのは素晴らしいことです。
いくつかのハリウッド映画でロケ地としても、背景地としても使われていて、インディージョーンズシリーズの四作目でも見覚えがあります。機会があって、お金もあると行ってみたい土地の一つですね。
「室蘭100年」という冊子が愚宅の引き出しから目を覚ましまして、その中にとても珍しい写真があったのに気がつきました。 増市校舎の全景は、よく撮られているのが測量山からのもので、こんな航空写真があったのには驚きました。 室蘭港の発展の様子を全景として表現されているのですが、妙に中央部分に大きな面積の茶色が目に留まりました。 こんなに広いグランドに恵まれていたんですね。体育の時間に一周は大変だと感じてましたが、空からもくっきりするくらいの空間だったのです。
室蘭港 開港140年、市政90周年を記念して刊行されました《室蘭の記憶》の各写真は本当に懐かしさと望郷の想いを強くします。 この中に母校の清水町時代の全景を見つけましたのでご案内します。 追直浜側から測量山を望む中心にグランドと本校舎以外の学び舎を見られる写真は、なかなか無いと感じたので転載します。 実際は、実際の書籍でご覧ください。